映画を語る切り口はさまざまだが、まずは全体像としてその歴史を概観しておきたいという読者には、『ハリウッド100年史講義』(北野圭介著、平凡社新書)と、『日本映画史100年』(四方田犬彦著、集英社新書)がお奨めだろう。両者とも大学で映画史を教えている立場から、いわば昨今の大学生向け映画史テキストといった趣だが、一般読者にも手軽な入門書となっている。
映画が誕生して約1世紀、前者は「覗き箱」から始まったハリウッド前史から始まり、「語る装置」としての語法や技術の進展、「古典的ハリウッド映画」と呼ばれる形式の出現、スタジオやプロデューサーのシステム、ジャンルの成立と解体、といった映画学の基本を押えながら、60年代アメリカの変貌、80年代の大作主義、そしてコングロマリット化した今日へと至った道のりが手際よく紹介されている。年代順に情報が整理され、「です・ます体」の文体で読みやすいハリウッド通史となっている。
後者は日本映画史に絞っているが、こちらも時代順に丁寧に歴史を追い、人名にルビを振るなど、日本映画には疎いであろう昨今の若者にも理解しやすい一冊になっている。初期は講談や歌舞伎にネタを取り、口誦芸から「弁士」が誕生するなど、映画作りにも日本独自の伝統が色濃く反映されているが、そこに外来の映画手法や形式が混じり合い、ハイブリッド的文化が形成されていった道のりが興味深い。日本映画のモダニズム性、戦争中の国策映画、戦後の黄金期、様式化・無国籍化が進んだ60年代、そして長い衰退期を経て、アジア的文脈に自己を発見しつつある現在と、映画を通した日本近代史が浮かび上がって見えてくる。
日本映画の過去の見直しが進むなか、映画監督の内藤誠は『昭和映画史ノート』(平凡社新書)で、埋もれた昭和の映画史を掘り起こしている。戦時下に創設された「日本映画学校」から、タアキイ(水の江滝子)の企画で世に出た石原裕次郎まで、興味深いエピソードがさまざまな証言とともに語られている。本書も、著者が教鞭を取る大学の紀要原稿を基にしてまとめられた一冊であり、今や映画史を語り継ぐ場が高等教育現場へと移って来ている現実を物語っていよう。
映画となるとどうしても話題はハリウッドに傾きがちだが、世界各地の映画祭やシンポジウムに足を運んできたのが映画評論家の佐藤忠男。『映画で世界を愛せるか』(岩波新書)では、韓国、中国、台湾、東南アジア、インド、アフリカなど、世界各地の映画と自らがいかに出会い、そこで何を考えたか、ロードムービーのような趣で語られる。同じ著者の『映画の真実』(中公新書)では、映画ははたしてその国の現実を伝えているのか、あるいは美化しているのか、と問いかけつつ、日本、ハリウッド、アジアの映画を縦横無尽に取り上げて検証していく。
『カンヌ映画祭』(中川洋吉著、講談社現代新書)は、フランス・カンヌの町で毎年開かれる国際映画祭について、その誕生から、賞の決まり方、映画祭を舞台にしたビジネス合戦など多面的に報告する。
映画ビジネスではまさに一人勝ちのハリウッドだが、『ハリウッドはなぜ強いか』(赤木昭夫著、ちくま新書)では、アメリカ消費社会のなかで育ってきた巨大ビジネス産業としてハリウッドをさまざまな観点から振り返る。ハリウッドの強さとは、専門職能集団、金融システム、経済や技術への対応、この3つの要素にあると著者は結論づけている。『ハリウッド・ビジネス』(ミドリ・モール著、文春新書)の著者は、映像ビジネスや著作権保護を専門としている在米の日本人女性弁護士。映画制作費や訴訟大国アメリカの映画ビジネスにまつわる裁判など、その実態が数字とともに詳しく紹介されている。
この他、ユニークな視点から映画を論じたものに、映画予告編の制作者が体験を交えて語った『映画は予告篇が面白い』(池ノ辺直子著、光文社新書)、アメリカ映画に黒人社会を探った『ブラック・ムービー』(井上一馬著、講談社現代新書)などがある。アメリカ映画本は英語の資料をネタにしても容易に書けてしまうが、著者自身の洞察力と映画観が勝負どころとなるだろう。
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