日本人がテレビを見る時間は、1日平均で3時間以上。これを1年になおせば、のべ50日以上、私たちはテレビとつきあっている計算だと佐藤二雄は『テレビとのつきあい方』(佐藤二雄著、岩波ジュニア新書)で言う。しかし私たちは、お世辞にも一所懸命にテレビを見ているわけではない。何を見ていたのかすぐ忘れてしまうし、多くの人はなにか他のことを「しながら」テレビを見ている。にもかかわらず、テレビはついつい見てしまう。見たくなくても見てしまう。
そんなテレビと私たちはどうつきあえばいいのか、テレビとはそもそも私たちにとってなんなのか。テレビはさみしさを紛らわせてくれるし、テレビはわかりやすい。遠くの出来事を即座に伝えてくれる。だが事実を伝えるのもテレビなら、事実を覆うのもテレビだと佐藤は指摘する。テレビは「深く考える」ことと対極にあるメディアだとも。だから私たちはテレビについてよく考えなければならない、というのが佐藤の主張だ。
テレビについての初期の論究としては加藤秀俊による『テレビ時代』 (中央公論文庫)や『見世物からテレビへ』(岩波新書)がある。テレビの草創期に、それが映画や新聞などとはちがう「きわめて庶民的な娯楽性の強いメディア」であることを看破した加藤の指摘は鋭く、現在のテレビ論をほとんど先取しているといってもいい。
そのテレビは「身近なメディアであるがゆえに質の高いものにすべき」だと現代的立場から論じているのは岡村黎明であろう。テレビ放送が40年を迎えた1993年に、世界と日本のテレビを比較し、政治からも社会からも離れマンネリ化したままで、ぬるま湯の中にあると厳しく指摘したのが『テレビの明日』(岡村黎明著、岩波新書)だ。視聴率依存のあまり番組評価がなおざりなこと、偏った放送行政の結果ネットワークに歪みもあることなど、その批判はビジネス面から制度面、表現や制作法まで多岐にわたる。
そして2003年、日本の放送は地上波デジタル化という大きな転機をむかえる。そこであらためて岡村が日本のテレビ全般を再分析したのが『テレビの21世紀』(岡村黎明著、岩波新書)である。デジタル化、グローバル化、多メディア化、多チャンネル化、などなどテレビとそれを取り巻く変化に日本のテレビはどこまで対応できているのか、再び多様な側面からの分析だ。そして現在までのテレビの進化・変化が、視聴者にむいていないことを岡村は指摘する。この本の終章に「視聴者主役の時代へ」と題した小章を加えた岡村は、テレビの編成や番組制作でも主役は視聴者、視聴者が主体的にかかわる新たな時代になると書いている。
テレビの新たな時代といわれる「デジタル化、次世代テレビ」の動きを考えるとき、日本同様テレビが発達したアメリカの放送状況を知ることは、世界メディアの中での日本のテレビを考える上でも重要である。岡村も指摘するグローバル化のなかで、もはや島国の安全な免許事業ではいられないのがこれからの日本の放送だ。『TVメディアの興亡』(辛坊治郎著、集英社新書)では、既にデジタルに移行しつつ、テレビメディアが産業として大きく動いているアメリカの実例を手掛かりにしながら今後のテレビのありかたを考えている。CNNの台頭やテレビ朝日買収の動きなど、日本でも海外メディアの動きが見え始めてはいるが、なかなか実態はつかめない。しかし現実として国際ビジネスのなかにテレビは既にある。
テレビはいったい誰のものなのか、こうしたさまざまな議論をながめながら考えるべき時期にある。日本で地上波が完全にデジタルに移行するのは2011年というスケジュール。新しいテレビはなにを映してくれるのだろうか。
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