アメリカ、ヨーロッパ、イスラム、韓国、インドなど世界の右傾化と歩調をあわせるように、1990年代以降、日本にもナショナリズムの嵐が吹き荒れている。ネオ・ナショナリズムはどのようなキッカケでどのように始まったのか。日本の若者の無邪気ともいえる「ニッポン大好き」とは何か。韓国ナショナリズムやヒンドゥー・ナショナリズムの背景とは? 民族主義と深く結びついたナショナリズムの深刻な問題を解決する手段はあるのか。
『ナショナリズムの克服』(姜尚中、森巣博著、集英社新書)は、90年代以降、いったいどこから日本にナショナリズムの嵐が沸き起こったのか、その原因を歴史的な視点から徹底的に分析する異色の対談集。1950年生まれの東大教授・姜尚中は在日二世として、居心地のわるい日本で、自分の居場所を見つけるために悩みぬいてきた。オーストラリア在住の国際的博奕打ちで作家の森巣博は、人間を抑圧しない自由な世界を求めて放浪し続けた。二人の対談は「国体」とは何かから始まる。国体が法律用語として浮上したのは「大日本帝国憲法」の第一条と第四条。第一条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」。第四条「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」。しかし「国体」の実質をだれも明らかにはできず、結局は「日本人にしかわからない日本の心や神髄」という言葉におきかえるしかなかった。戦後、「天皇」を「象徴」に封じこめ、国民と天皇との共同体に回帰する形をとったナショナル・アイデンティティは、経済ナショナリズムとして存続しつづける。バブルによる絶好調な日本経済もじつはアメリカによる日本の植民地化、傀儡政権に操作された日米談合による「経済ナショナリズム」の誕生にすぎなかったのに、日本人はすごいぞ!という勘違いの日本人論が多数出版され、ナショナリズムが一気に盛りあがる。バブルの崩壊により明らかになってきたグローバリズム経済への日本の乗り遅れが、今度は一部の支配者だけに都合のいい状態、国民を「一億総在日化」ともいえる疎外された状態に追いこむナショナリズム政策へと転換されつつある。どうすればこのナショナリズムから自由になれるのか? 近代の歴史を検証し、少数派も多数派も難民をも受け入れるゆるやかな国家の再創造、最終的には民族や国家という線引きの終焉を模索するしかないようだ。対談形式の小さな書物にしてはすばらしく充実した内容。巻末の膨大な人物・用語解説は圧巻。
『ぷちナショナリズム症候群:若者たちのニッポン主義』(香山リカ著、中公新書ラクレ)は若者の「ニッポン、大好き」「愛国ごっこ」を取り上げ、その背景を探る。サッカーのワールドカップで日章旗を無邪気に振り、熱狂的に「ニッポン」を応援し「君が代」を斉唱することに何の疑問も持たない若者たち。彼らは過去の歴史との繋がりの中で「日の丸」や「君が代」を考えることはない。また、今の若者は「ちょっとした葛藤やめんどうくさいことを避ける」傾向が強い。精神分析用語でいう「分裂」と「解離」が容易に行われ、今だけを楽しむ傾向がある。これは日本人の精神に「葛藤を避ける」という重大な変容が起こっていることを証明しているのではないか? 自由にものを言える社会に見える日本だが、じつは村社会のがんじがらめの掟のなかで人々は生きているのかもしれない。階層化は進むし、二世が堂々と親の七光りを利用する。言論人は沈黙するなか、健康と富、強さ、快適さだけが大切という「強者の論理」がまかり通り、ハイもローもどちらの階層も一気にナショナリズムに突き進む可能性が大きいと著者は警告する。
日本の若者が歴史意識から無縁だとすると、韓国の若者は徹底した歴史教育で反日ナショナリズムを形成する。日本人のみならず外国人にたいする排斥は目を覆うほどで、国をあげての韓国の民族主義に焦点をあてた『病としての韓国ナショナリズム』(伊東順子著、新書y)は、いきすぎの感もある韓国ナショナリズムの強烈な姿を浮き彫りにする。
『ヒンドゥー・ナショナリズム : 印パ緊張の背景』(中島岳志著、中公新書ラクレ)は戦闘的な反ムスリム運動の国・インドでヒンドゥー・ナショナリズムを担うRSS(民族奉仕団)の姿を描く。著者は、彼らの主張を「ヒンドゥー原理という擬似宗教的なイデオロギーによってインド国民を一元的に統合しようとする政治運動であり、国家に従順な国民を育成しようとする近代主義的ナショナリズムの動き」と結論づけている。イスラム教、キリスト教を激しく迫害するヒンドゥー・ナショナリズムの危険性を詳述する。
『戦争を記憶する : 広島・ホロコーストと現在』(藤原帰一著、講談社現代新書)は、日本のみならず、どこの国でも同様の現象だが、なぜ戦争とナショナリズムが結びつくのか、どうすればそこから脱却できるのかを示唆している。
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