よく知っているようでわからないものの代表が「世間」と呼ばれるものだろう。「社会」と似ているが、違いもある。世間の風・世間に顔向け、とは言うが、社会の風・社会に顔向けとはあまり言わない。社会を変える・現代社会とは言うが、世間を変える・現代世間とはあまり言わない。
歴史学者である阿部謹也は、日本に古来からあるのは「世」や「世間」であり、「社会」は明治以降に輸入された概念であることを指摘する。日本における共同体や人間関係をあらわしているのは「世間」であって、西欧の「個人」を前提とした「社会」ではない。にもかかわらず、日本の社会科学の大半はこの「世間」を無視してきたと言う。
そこで阿部は学問として「世間」を研究する必要性を主張するが、これがまとめられたものが『「世間」とは何か』(阿部謹也著、講談社現代新書)である。歴史学の手法を駆使し、万葉から方丈記、親鸞、井原西鶴から夏目漱石・永井荷風・金子光晴にいたるまで、文献上にあらわれた「世間・世」の内容分析から「日本人にとって世間とは何か」を読み解く大作である。そこでは本来仏教用語として「人間世界」をあらわした「世間」が次第に集団としての文化的圧力を持ち始め、また「世間」とかかわって生きる知識人や庶民のありかたなどが描かれる。こうした作業を通して近世から近代へと日本人の世間がどう成立してきたかがうかがえる。
『「世間」とは何か』では近世の武士についての論述が少ないが、そこを詳細に検討したのが『武士と世間』(山本博文著、中公新書)である。サムライたちの強い精神性を支えたのが階級義務と嫉妬から構成される世間であるという分析は、近代日本の「世間」の形成について考える貴重な視点である。「世間」の存在と、その圧力としての強い規律がいかに成立したかを知ることができる。
だが本来的な「世間」は個人に何かを押しつけるようなものではない、と阿部は『「教養」とは何か』(阿部謹也著、講談社現代新書)で論じている。本当の世間を知るために、世間の構造を客観化し「世間を変える」ことではじめて社会の中に自立した個人となると阿部は主張している。また阿部には、「世間」との対比としての「社会と個人」を専門である西洋中世史から読み解いた『「世間」論序説』(阿部謹也著、朝日選書)もある。
こうした「世間」を支える状況や人間関係については人類学や民俗学からのアプローチもある。社会人類学者である中根千枝の『タテ社会の人間関係』(講談社現代新書)はあまりにも有名。もはや古典ともいうべき分析だが、意外にも彼女の分析は誤解されていることが多い。彼女の言う「タテ社会」は「資格や職位などの属性よりも、共有される場の効果が強い社会」という意味なのであるが、単に「上下関係が厳しい社会」ととらえられることも多い。ぜひ再読をおすすめしたい。
また『覚悟と生き方』(岩本通弥編、ちくま新書)は、5人の民俗学者によるアンソロジー。民俗学を現代社会に応用するという挑戦的企画、「民俗学の冒険」と題されたシリーズのうちの1冊である。サラリーマン川柳から読み解く会社の掟、うわさ話から世間話・世間、結婚、はたらく女性、そして死に場所と、まさに「冒険」にふさわしく「世間」の諸相を鋭く斬った論文が並んでいる。テーマがバラバラな印象はあるが、読み応えがある。
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