「私」とは自明なようで、実はよくわからない事柄である。私とは何か?私とは誰か?と問われて、たとえば人間であるとか、なんのなにがしである、とその属性や名前、職業といったこと以上の、あるいは以下の、本質的な答えを持つ人は少なかろう。「私」が「私」というときの「私」と、あなたや彼女が「私」というときの「私」は、「私」が自明であると思っている思い方の「私」としては、当然、違う存在である。
では、それぞれに違う「私」ではなく、誰もに共通する、あるいは普遍的な「私」とは何か。つまり、私ということのあり方や構造は、どのようなものなのか。それを問うているのがここでいう「私とは何か」という問いである。自分探しの「私とは何か」ではない。
『私とは何か』(上田閑照著、岩波新書)は、その「私」という事体を深く考察した思索の書である。簡単ではない。が、「ぼくって誰だろう」とか「本当の私はどこにいるの」とか、甘っちょろいことに悩んで自分探しをしているような私たちの目を覚ましてくれる、覚醒の書である。
上田は「私」というときに、すでにそこには問題が始まっている、と指摘する。私たちは「私は私です」というが、そのとき、「私」に固有なこととして、自己同一性、自覚、自由ということが挙げられる。が、自己同一性には自己喪失、自覚には無自覚、自由には不自由ということが含まれており、その意味で私は不安定な存在と成らざるを得ない。「私は私です」には「私が私でなくなる」可能性があるのである。
ところで、「私は、私です」と言うときには、まず、私を指さして「私は」といい、相手に向かって「私です」という。その全運動が「私」ということであり、それは平板で連続的な運動ではなく、いったん、方向転回する切れ目の入った運動である、と上田は言う。その切れ目は、私の連続性の否定であり、その切れ目によって、「私は、私です」は「私は、私ならずして、私です」となる。そこに、人間存在の根本構造がある。しかし、多くの場合、不完全な形態が現実のものとなっている。私ならずしてという否定の切れ目のない(私は、と自己を他者と区別して指ささない)「私です」は、自閉自己執着となり、そこには私と他者の区別がない。一方、「私は、私ならずして」で運動が終わり、「私です」と外に向かっていかない「私」は、自己喪失という事態に消えてしまう。私の不完全な形態に、自己喪失、無自覚、不自由という事態が現れてくるのである。そのような事例は、身の回りにいくらでも見つけることができる。
『私とは何か』で上田は、私という事態を「私は、私ならずして、私です」という運動と捉えることを基盤に、自我と自己、自覚と自意識、無我、コギト、私と汝といった、哲学が問い続けてきた問題を思索していく。観念的な思索に留まらず、ルターや山頭火など実在した人物の生き方を通して、私という事体を徹底的に考察していく。自分探しがもてはやされているが、上田はどこを探しても「私」などというものが見つかるはずもなく、自分探しでいうところの「私」というものは、たとえば長年田畑を耕してきた農民が、田圃の中に立っている、その姿に自然と現れてくるものだ、と言っている。「私」とは見つけるものではなく、生きるものなのだ、と。
『「私」とは何か : ことばと身体の出会い』(浜田寿美男著、講談社選書メチエ)は、心理学者の著である。人間という存在は、身体に囚われつつ、身体を越え、そして、身体を越えつつ、その越えた世界に囚われる、という構造を持っていて、「私」はその構造の中に生まれる、と著者は見る。その構図の要は言葉であり、その構図を身体と言葉の関わりから追うというのが、本書の課題である。
言葉により、人間は身体で生きている時空世界とは別のもう一つの時空世界を立ち上げることができる。たとえば、「雪が降っている」というとき、実際の身体が生きている世界に雪は降っていなくても、人間は想像の世界に雪を降らせることができる。それが、著者の言う人間の構図である。その構図の内にあって、私という存在がいかに成立していくか、を考える。
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