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日本人の教育・教養
日本の学校教育、家庭での躾、古典の素養や道徳観、宗教心など日本人の身につけている教養などから、現代の日本人像を考える。
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読書ガイド
 教育基本法の改正(2006年)を巡り、教育のあり方がさまざまに論議されている。「教え、育むこと」。個々の人間にとっても社会にとっても大切なこの課題について、一人ひとりが改めて考えたい。
『考えあう技術/教育と社会を哲学する』(苅谷剛彦/西研著、ちくま新書)は、教育社会学と社会哲学という異なる分野の研究者が語り合う形式。職業選択が自由になったことは喜ばしいが、進路が決まるまでの長い年月勉強する中で、子どもたちは学ぶ意味を見出しにくくなってしまった。教師や親はその現実を踏まえ、「社会全体の自由を確保するために一人ひとりの市民が身につけるべき知識」として教える覚悟が必要だと二人は結論する。「わかる」ということの本質、学校を集団生活のルールや関係性を学ぶ場ととらえる見方が、丁寧に考察されている。
 国語力という具体的なテーマを掘り下げた『日本語のできない日本人』(鈴木義里著、中公新書ラクレ)の著者は、言語情報科学、社会言語学を専門とする。国語に関する調査結果、若者の書いた文章を引用し、学力低下は国語力の低下であり、「読み書き能力」も知識であると見る。知識のないところからは思考も育たず、子どもたちが学ぶことから逃げたがる現状を何とかしなければならない。また、近代以降の国語政策を追い、なぜ「日本語」でなくて「国語」として教えられてきたのか、日本人以外の人たちに開かれたものにするにはどうすればよいかと問いかけるグローバルな視点も鋭い。漢字を制限する可能性、パソコン普及による日本語の変化など、新しい日本語観と教育論が展開されている。
『<教養>は死んだか/日本人の古典・道徳・宗教』(加地伸行著、PHP新書)の著者は、儒教を中心とする中国哲学史の研究者。「儒教」と聞くと、倫理や道徳を説いた堅苦しいものとばかりに拒否反応を示す人は少なくない。しかし、儒教の古典はもともと行政や財政、建設、天文暦法といった有用な知識の書かれたものであった。現代において内容が後れたものになったとしても、古典を通じた人間教育は可能であり、ヨーロッパの教養人が必ずラテン語に通じているように、日本人も漢文を学ぶことで教養を深められないかと提案する。
 子どものしつけという観点から、明治以降の学校や家族の役割変化を追ったのは、『日本人のしつけは衰退したか/「教育する家族」のゆくえ』(広田照幸著、講談社現代新書)。「昔の親は厳しかった」「今の家庭はしつけを学校にまかせたがる」--著者は、いつからとはなく多くの人が抱くイメージが、実は誤りであることをデータや文献で示す。都市化した地域、高学歴層の親ほど学校にしつけを期待しない傾向が明らかにされ、時代を経るにつれ、家庭という小さな単位が子どもの教育に関する最終責任を一身に引き受けざるを得なくなっている危うさが浮かび上がる。
 教育が危機に瀕していることは、国の危うさでもある。『教育と国家』(高橋哲哉著、講談社現代新書)は、教育基本法のうたう「個人の尊厳」や「個人の価値」の尊重は憲法の理念を実現するものであり、命の大切さや愛国心と矛盾しないと主張。教育基本法改正の疑義をただす。少年による凶悪犯罪の件数は減少傾向にあるのに戦後教育に問題があったかのような言説を批判すると共に、卒業式や入学式などの式典の画一化を見るだけで自由であるべき学校がいかに戦前をひきずってきたかを指摘。その一方で、日本国籍をもつ人のみを「国民」とする前提について問題提起し、これからは周辺国と可能な限り歴史認識を共有しようと努めるべき時代であることをも示唆する。
 同様に国を憂える『戦後教育で失われたもの』(森口朗著、新潮新書)は、教育基本法について「改正ではなく廃止こそふさわしい」と説く。「結果の平等」という理想は実現不可能であり、若者が己を知るためには偏差値競争をさせることが必要、三十人学級は学校を滅ぼす--といった自説が目を引く。
 教養を語る難しさをさまざまな角度から論じた『グロテスクな教養』(高田里惠子著、ちくま新書)は、「教養主義」「教養論」の歴史について、『君たちはどう生きるか』『赤頭巾ちゃん気をつけて』などのベストセラーを絡め、地に足の着いた分析を試みる。結果的に、男女にとっての教養がどれほど違う意味をもっていたかを検証した一種の「フェミニズム教養論」になっているのが面白い。
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