29. 歴史
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江戸時代の百姓
江戸時代の百姓は、時代劇でステロタイプに伝えられているのとは全く違った実像をもっていたといわれる。江戸時代の百姓の実態、百姓にかかわる事件など。
読書ガイド

江戸時代といえば、武士が支配する幕藩体制のもと、厳しい封建的身分制度に雁字搦めにされた被支配者である農民や町人には、全く自由のない社会であったと、日本史は教えてきた。江戸時代の百姓といえば、土地と身分に縛られ、悪代官や厳しい年貢に苦しめられて、不幸な生涯を送っていたというのが、歴史教育と時代劇などから与えられたイメージだった。が、近年の近世史研究の成果により、江戸時代とはこれまで考えられていたのとは随分違った、自由で活気のある社会だったことが分かってきた。農村では、我々がイメージする百姓とは全く違った人々が生活していたのである。

『百姓の江戸時代』(田中圭一著、ちくま新書)は、為政者側が作った制度ばかりを重視し、社会の実態を検証してこなかったこれまでの日本近世史を批判し、圧政と年貢に苦しめられていたとされる江戸時代の農民のイメージを払拭した好著だ。著者は「歴史の主役は百姓」といい、彼らが自らの所有地で自らの計算・計画によって田畑を経営していたことを、様々な資料をもって明示する。そこには、力をあわせて耕地を開き、広い家屋敷に住み、字を読み計算をし、諸国を旅し、立派な婚礼を挙げる、そんな元気な百姓の姿が描かれている。著者は、訴えによって奉行の首が飛ぶほど百姓に政治的発言力があったことや、厳しい身分制度と信じられていた時代にも、武士が商人になったり百姓が武士になったりという身分移動が散見されることなどを示し、江戸時代の農民理解に新風を吹き込んでいる。

『百姓の江戸時代』が、いわば総論として近世の百姓の姿を描いているのに対し、『江戸村方騒動顛末記』(高橋敏著、ちくま新書)は、19世紀初頭に世田谷の百姓たちが起こした訴訟事件のあらましを詳細に追いながら、当時の百姓の実態をつまびらかにした痛快な読み物である。主人公となる百姓たちは、名主(村の指導者)とのトラブルに理不尽な裁きが下されたことに怒り、藩主の上屋敷に直訴するのだが、揉み消しを恐れ、何のゆかりもない隣接する藩の上屋敷に訴状を投げ込んで情報をリークしたり、目安箱や寺社奉行所にも同様の訴状を持ち込んだりと情報戦を展開し、ついには再審と事実上の勝訴を勝ち取る。そこに描かれているのは、読み書きそろばんに通じ、不正には断固として闘う物言う百姓の姿である。

この事件の顛末から理解されるのは、これまで信じられていた江戸時代とは全く違った社会や百姓のありかたである。著者は、江戸時代が経済、消費、教育、文化が成熟した時代であったことを指摘し、徳川氏による平和が実現された社会にあって、食べることだけには飽き足らず、豊かな消費を求め、競争社会に身を投じ、学問を身につけ、自己主張をしていた庶民の姿を見事に再現している。江戸時代の身分制度も、これまで考えられてきたような、世襲制に固定された身動きできない制度ではなく、富と才覚さえあれば、百姓身分から武家へと移動可能であったことを例示し、運用面では実に柔軟な制度であったことを、数々の資料から証明して見せている。

『逃げる百姓、追う大名 : 江戸の農民獲得合戦』(宮崎克則著、中公新書)は、大名の農村統治政策を手掛かりに百姓の実態を追う。舞台は江戸時代前期の九州豊前の細川領。そこで、よりよい環境を求めて村を捨てる百姓たちと、逃げた百姓を追い、あるいは、他所から逃げてきた百姓を好条件で迎え入れる領主たちの姿を、資料を元に詳細に再現する。

戦乱の時代が終わると、領主たちの関心は生産力の向上に向けられた。生産を支える百姓は領主にとって富の源泉であり、いわば宝となった。そこで力関係が崩れ、年貢や使役の軽減などをもとめ村を捨てる「走り」と呼ばれる百姓が登場したという。江戸時代には、農民の移動などを厳しく禁じた藩や幕府の法令が多くみられるが、著者は、法令はこれまで考えられていたように、百姓に移動の自由がなかった厳しい社会を証拠づけているのではなく、自由に移動をする百姓が多かったために必要に迫られて行われた政策だったと指摘する。その証左として、領主たちが他所から逃げてきた「走り」の農民らを優遇するなどの政策を実施し、百姓の取り合いをしていた実態を描くのである。

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